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上野から福島の間ですが、何回か“青いはつかり”に乗りました。母に頼むと決まって“ひばり”しか取ってもらえず、祖父とみどりの窓口に行った時にねだっていたみたいです。青くてデカい車体と速さ、見慣れない広幅ボックスシート、子供心に特別感を感じていたのを覚えています。583系、カッコよかったなあ。最後に走る姿を見たのは、武蔵野線を6連で走る姿でした。
上野~青森を全線走破する583系はつかりは別格の貫禄ですね昭和55年のお盆、宮城県の祖母宅で東京のイトコに「やまびこの食堂車でカツカレーを食べて来た」と自慢されて羨んでいたのですが、お盆明けで東京に帰るイトコを小牛田駅で見送る時はなんと583はつかり!!羨ましさのあまり名残を惜しむどころか憎まれ口を叩くことに。夏が終わってイトコから「はつかりの食堂車で食べたフライ定食は美味しかったよ。来年は一緒に特急の食堂車でご飯を食べながらばあちゃんちに行こうね」と手紙が。しかしその夢はついに叶わず、40年以上も経ってしまったとは。583はつかりは子ども時代の永遠の憧れです。
いつもありがとうございます。この頃は「全車指定席でなければ特急にあらず」「300キロ以上走らなければ特急にあらず」「食堂車・グリーン車がなければ特急にあらず」と言う匂いがしてました。その後特急増発で自由席を付けたことで、「コーヒー1杯で食堂車に粘る客」が増え、食堂車ももうからなくなり廃止。583のはつかりは一度だけ乗りましたが、案外ボックスでも乗り心地は良かったです。その後、思わぬ所で再会。1985年に開催されたつくば博覧会、定期列車では足りず、臨時列車がキハ58、寝台の20系、583系などあちこちからかき集められて運転されてました。【追記】仙台の乗り換え、急行きたかみですが、列車番号といい所要時間といい、花輪線・奥羽本線経由でしょうか。
583系昼運用は、有明に乗ったことがある。リクライニングはないけど広々としてよかった。583系は渾身の作だね。(581系だったかも知れないが)
食堂廃止は人件費や衛生面も関係してたでしょうね、現在は九州の気動車特急の一部にビュッフェがありますが「イートインカー」と呼んだ方がいいでしょうね。
ヨンサントオの1ヶ月前の1968年の9月から、常磐線経由で583系はつかりが気動車のスジで運転されているんですよね。試運転のつもりだったのでしょうね。急行まつしま、懐かしいですね。451系の頃、「松島」のヘッドマーク掲げていました。父の撮影した写真が残っています。まつしまにはビュッフェが連結されていて、にぎり寿司コーナーがあったそうです。食べてみたかったなあ。
新幹線が盛岡まで開通した後、485系のはつかりに乗って青森まで行ったことがあります。車内は満員で盛岡ー青森間だけでも思ったより時間がかかり、大人になった私でもかなりストレスを感じましたわ。昔の人は、嘸かし苦労して帰省したたのだろうと、つくづく感じましたわ。また新幹線の存在の有り難みと大きさも実感しましたことを思い出しました。
いつもありがとうございます。はつかりは1回だけ上野まで乗りました。後は盛岡止まりになってからですね!地元が地元だけに583系は愛着がある車輌の1つです。Twitterフォローさせていただきました。
はつかりには、何度かお世話になりました関東在住の親戚宅に遊びに行ったり、中学の修学旅行などいろいろな思い出があります夜行はくつる、ゆうづるも乗りましたが、昼行特急と同じくぶっ飛ばして走っていました唯一の心残りは、食堂車で食事が出来なかった事です。
夜ははくつるやゆうづるとして上野にトンボ帰りしてたんですかね。ホント過酷な運用でしたね。すごい。
今なら東京から青森は新幹線で3時間で行ける時代。在来線特急で8~9時間かかった時代からしたら夢のようでしょうね!しかも函館も乗り換えはあるものの4時間ちょっとで行けるようになり、おそらく函館観光程度なら東京から日帰りもでき、本当に便利になりましたね。
寝台特急電車581系は昼夜問わずフル回転した働き者50ヘルツの東日本は483系と583系60ヘルツの西日本は481系と581系が走行した後に二つとも対応できる485系と583系になり交直流両用の特急電車は昼行特急の花形として長きに渡って活躍した20世紀の名車になった
午後に上野を出発する当時の”はつかり”は、上野->宇都宮->福島->仙台->盛岡->青森(大宮、郡山は通過)にしか停車しなかった最速特急でしたね。2時間以上ノンストップが当たり前でした。
盛岡駅の駅弁には当時、ジンギスカン弁当っていうのもあって、自分はそれを買って食べた記憶があります。
まだ松尾さんが全国展開する前でしょうから貴重な体験ですね。
ヨンサントオは東北本線黄金期の幕開けでしたね。はつかり・やまびこ・ひばりの本線特急、つばさ・やまばとの奥羽特急にあいづ号と一気に役者が集まった感じがします。常磐線はその煽りを受けて一時期夜行特急ゆうづる中心になり、ひたち・みちのくの登場まで昼行特急再生を待たねばならなくなりませんでしたが。
特急はつかり、一度だけ大阪から恐山に行くために青森・野辺地間だけ乗車しました。残念ながら583系ではありませんでしたが、終点盛岡まで乗車してみたかったと今でも思う事があります。東北本線全盛期の時、特急はつかりはL特急ひばりに次いで運行本数が多く、特急やまびこや特急つばさよりも多かった記憶があります。また583系と言えば、私はまず真っ先に新大阪・博多間を走っていた寝台特急月光を思い浮かべてしまいます。この列車こそ私を鉄道の世界への興味の扉を開かせたものです。まだ幼い子供の時分でしたので乗車はかないませんでしたが、いつかは乗車してみたいと思ておりました。また懐かしい列車の思い出を掘り起こして頂きありがとうございました。 PS・・・またリクエストですが、幼い子供の時の憧れであった新大阪発博多行きの寝台特急「月光」か、戊辰戦争の古戦場巡りに便利な新潟発上野行きの急行「いいで」を取り上げて頂けたら、とても嬉しいです。気が向いた時には、是非ともよろしくお願いしますね。
小学生の頃に「はくつる」のB寝台に乗ったが、急行「津軽」のオハネフ12よりは快適だった記憶があります😅
いつもご視聴とコメントありがとうございます。10系客車の乗り心地はあまり良い評判をききませんもんね。高さを考慮しなければ、583系の方が幅も広くて快適であったでしょうね。
停車駅がめっちゃ少ないですね。俊足特急ですね。一度だけ583系寝台に乗った事あるけど、もう一度乗ってみたい。
ところがどっこい、この列車は本当の本気の停車駅ではないという……
渡道で最速ははつかり2号ですね!。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。はつかり2号→おおぞら の乗り継ぎを使用して、上野(15:40)→札幌(8:55)ですから、はつかり1号を使用するより2時間30分短いですね。
@@vfcfha ですです!!後のはつかり5・1号です!!!
@@khf-hd7sq53-10 で11号と2号に、車両もこの頃には485に変更
1976年8月、中学2年生の夏休みに新大阪→大分の583系彗星3号のB寝台下段に乗車した思い出があります。高さはともかく、ゆったりした寝台幅には感動した記憶があります。
名古屋ですと、583系は寝台電車特急「金星」号で名古屋〜博多を往復。間合い運用で、昼行電車特急「しらさぎ」号で名古屋〜富山を往復する運用に就いていた。583系の昼間の普通車の座席は向い合せで、好きじゃなかった。寝台電車の発想は素晴らしかったが、昼夜こき使われて、短命だったと思います。最後は改造されて、ローカル運用の普通電車になってしまい、見ていて泣けてきました。2021Mはつかり1号の方ですね。ヨンサントウの時刻表を持っていないので、鉄道ピクトリアル2018年7月号「43-10」ダイヤ改正50年特集号で調べました。札幌から先の列車の接続が知りたいです。
しらさぎで休止してた食堂車が雷鳥では営業でしたね。
大宮の次が郡山、宇都宮や一ノ関、北上…通過という北海道連絡という風格を感じさせる、エル特急出現前の「ほんものの特急」という感じですねはつかりには10年後の78年に乗車しましたが、残念ながら背もたれが固定式のボックスシートと居住性の悪い評判の悪い特急に成り下がっていました
渡道で最速は、はつかり2号の方ですね!で八戸はまだ尻内って駅名の時代ですね!。翌年に幸ちゃんフィーバーを起こす三沢高校も甲子園からの帰りにはつかりを使ったのかもしれませんね。
盛岡乗りかえのところ、山田線の行き先「宮古」が「都」になっている。
中野の「宮古こんぶ」なんちゃって^^
当時と現在の物価の違いがあるから当然なのですが、駅弁の安さよ…
盛岡での秋田連絡が注目されたのが特急化されてからだったのは遅きに失しましたね、全線開通自体が遅かったのもありますが単純計算では東京⇋秋田の最速ルートになってもおかしくなかった距離ですね。
Greetings from Hong Kong...東京/上野行きの時刻表について動画を作りませんか?
青函連絡船接続の昼行特急のはつかり、みちのく、夜行寝台特急はくつるには乗りましたね、格下げ改造の715系、419系、717系1000番台乗りましたが、九州では715系に改造後にも全席指定席の臨時急行に運用されてました、もちろんロングシート部分も指定席で発売されてました。
当時の特急では当たり前でしたが、大宮〜郡山間(黒磯で運転停止?)、仙台〜盛岡間の不停止が今となっては印象的です
いつもありがとうございます。583系が昼夜をフル回転して走り続けた時代の始まりですね。夜行列車で青森→東京、さらに寝台を解体して座席車として青森に戻ると言うハードな運用だったことと思います。さらには往復ともに120キロのトップスピードで走行となると機器のメンテも大変だったことでしょうね。向い合わせの座席はひばり号の485と比較して遜色のない座り心地でした。三段寝台は客車と比較してベッドの幅が広く、評判は良かったそうです。限られた車両、線路容量やスタッフのなか、日々多くのお客様を運ぼうと言う苦心作でした。今度は大阪から出雲方面を結んだ急行だいせんを希望します。朝大阪駅を出て出雲大社の近くに到着するのは夜と言うのも凄いものでしたね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。座席と寝台を両立するために、細かいところまで設計者のアイデアが溢れる車両だったそうですね。限られた資源を有効活用するために、当時の人達の知恵を集めた力作だなと思います。リクエストありがとうございます。大変魅力的な列車ですね。こまめに停車しながら出雲へと向かっていましたね。
在来線特急「あさま」廃止直前の、1997年の横川駅(or軽井沢駅)の時刻も見てみたいです
福島でつばさ2号に乗り換えるより仙台で急行仙山に乗った方が山形着は速い?
最速のはつかり号でも青森には夕方過ぎ。函館には夜中。早朝には札幌。北海道を陸路で行くには大がかりな旅ですね(゚Д゚)。今では、新千歳空港まで空路で2時間以内で着く。北海道も近くなりましたね(*゚∀゚)。
この頃には東京対札幌のシェアは航空が過半数を占める時代になっていましたが、国鉄は運賃の安さと自らの特急増発でまだまだ盛り返そうと考えていたのでしょうね。新幹線が札幌まで開通したら飛行機が有利である状況は変わらないものの少しは盛り返すのかもしれませんね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。複線電化で速度が上がったとはいえ、遠い距離であることがよくわかりますね。新幹線の札幌開業で、北海道各地に周遊しやすくなると良いなと思います。
リクエスト寝台特急トワイライトエクスプレスでお願いします。
581・583系は西に東と昼夜走り続けた時代の寵児であり、唯一無二の存在となった日本の鉄道史に残り、今後、出てこない車両であるので、個人的に好きな車両でもあります。
同感です。昼寝中のサンライズを見ると「働きなさいよ」と思ってしまう、583系はつかり時代を経験した一人です。
@@こちたんぱぱ でも、この寝台には乗りたくないな。狭そうだし。サンライズは広くて個室で快適に寝れるし、起きてから仕事もできる。
@@こちたんぱぱ 様サンライズの昼行運用は出雲はともかく瀬戸は可能なのではないかな。午前10時頃高松を出発、午後7時半東京に到着、というダイヤは組めそう。昼間の移動も個室でゆったりというのも悪くない。
福島駅でのお乗り換えで、一部「郡山」になってます。
主要駅の通過が多いのに浅虫(現浅虫温泉)が停車駅なのは意外でした...
ご視聴とコメントありがとうございます。時刻表を読みながら私も同じことを思いました。どのようなニーズに応えるために設定しているのかを考えるのも面白いですよね。
@@tomoyankun おそらく、昔から浅虫温泉への需要が高く、ちょうど宿のチェックインとチェックアウトに当たる時間帯に特急を停車させているのではないかと推測します。
@@kataakeo7730 様極端に朝早い、夜遅い時間帯に浅虫を通る列車は、急行はともかく特急は停車していないからね。地元民よりも温泉客を意識した扱いだったのだろう。
今度は昭和55年のダイヤで、特急「はつかり」と青函連絡船と夜行急行「すずらん」と急行「かむい」と富良野線の旅をリクエストします
いつもご視聴とコメントありがとうございます。北海道の名所を回れそうな楽しいルートですね。リクエストありがとうございます。
宇都宮すら通過するのが「The・特別急行」という感じがしますね。大宮~郡山間や郡山~福島~仙台間で車窓を眺めながら美味しそうに食堂車で昼食を食べている光景が浮かんできました。
これの面白いところは停車型は宇都宮通過の一方で速達型(この当時ならはつかり2号)は宇都宮に停車するところなんですよねぇ夕方の最速列車だったらどの辺りで夕餉、あるいは晩酌を嗜むことになるのだろうか……
でも、なぜか浅虫に停車する。小さな温泉郷はあるけど。
@@kataakeo7730 様昭和56年の時点では、北海道からのカーフェリーで、港から通じた道と国道との交差点の案内標識が「④浅虫← →弘前⑦」という表示だったから、結構名の知れた地名なのだろう。結構需要もあったのではないか。
当時、猛スピードで大宮駅を通過するのを見たことがあります。子供の私にとって、青い『はつかり』は、まさに特別な急行でしたわ。その時に撮った写真は今でも大事に取ってあります。
リクエストは、昭和58年で寝台特急「ゆうづる」と青函連絡船と特急「おおぞら」で釧路の旅をリクエストします
きたね。はつかり。上野発のレジェンドトレイン。
盆前に持ってくるとは…。やっぱやるね。
4310(ヨン・サン・トウ)のダイヤ改正から東北本線全線電化ではつかりは東北本線全線走行になり、東日本特急の雄として君臨するここから東北特急急行の全盛となり、東北新幹線開通までかなりの賑わいを極めた
乗務員交代は何ヶ所で行っていたのでしょう。大宮から郡山までノンストップと言うことは上野から郡山まで交代なしで行った?
北東北は初雁、中央線は初狩高原、どっちもフルーツで有名な地域今はつかり号があったら「中央線初狩駅来たー!あれ?特急はつかりってここ来ないの?」とかいうギャグをみんな投稿しそう
国鉄史上最大のダイヤ改正と言われるヨンサントオは凄かったみたいですね。東北本線は全線電化複線化しましたが、厳密には青森信号場~青森が単線なんですよね。急行しもきた碇ヶ関行き、急行なつどまり1号鮫行きといった優等種別として何か微妙な行先の設定があったのは気になるところです。あとコミケ1日目お疲れ様です。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。青森信号場〜青森駅間の件を見て、青森信号場について調べてみました。思っていたより複雑で勉強になりました。なつどまりは調べてもなかなか資料がなく、経緯について色々と考察しがいがありますね。
旅客線は坂を上る前に単線になり、その後たくさんのポイントを通り駅進入となるんですよね。上りもこの逆です。ゆっくり橋梁上を走るのが終着駅て感じで良いですね。
まさかのあえての"停車型"と来ましたか!!!結構渋い選定ですな(とは言いつつ1Mの方も見てみたい感はある一方で(1975年辺りの)4001M→1便→1D→どこかで乗り継いで稚内へ……というパターンも見てみたいですな……)
そろそろ北斗星やトワイライトも知らない人出てきそう。
尻内って今の八戸
仙石線が12から20分間隔運転で雑に紹介されてる。50年以上前からそれなりに走ってて、ぶっちゃけいまでもあんまりかわらない😅 4:44
大宮から郡山までノンストップは今の新幹線並みがそれ以上に感じられるぶっ飛ばし具合ですね。それだけ、関東方面と東北方面の連絡を重視していたということなんでしょうか。長距離運転列車に必ずと言って良いほど着いていた食堂車のメニューにも興味をそそられますね。食堂車のメニュー、途中で食材が切れそうになったらどうしていたんでしょう。まさか途中の駅で積み込みは出来ないでしょうし、売り切れにしたんですかね。
ところがこれでさえ"停車型"の停車駅なのだから本当に恐ろしい……(本当の意味でぶっ飛ばす列車はむしろ夕方発のアレ)
はつかりは、大宮すら通過するのもありましたからね。
はつかりいいよな自分こないだ1985年の時刻表の本を買いましたいつでもいいので自分の好きな雷鳥号とはくたか号の話してください来年には北陸本線が廃止になるみたいだから
急行アルプス1997年10月ダイヤお願いします。
583系繋がりで急行きたぐに号お願いします🤲
特急「はつかり」 上野 → 大宮 → 郡山 → 福島 → 仙台 → 盛岡 → 尻内 → 浅虫 → 青森 😮
一ノ関通過なのに駅弁表記する意味
駅弁安い! 今のおにぎり1個分の値段(笑)!
せっかくだから1Mでやってほしかった
上野と青森を結んだ代表列車ですね。停車駅の少なさ(大宮から郡山までノンストップ!)この時代の特急の風格を感じます。自分が乗った時は東北新幹線が開通して盛岡と青森を結ぶリレー列車になってしまったのが残念でした。
「なすの」のように、古河や氏家にすら停まる列車を特急にした明確な理由が不明。結局は特急料金欲しさだな。
@@Kineosporia この時代には国鉄の経営がかなり悪化していましたからね。
@@山形祐介-e5l 様「新特急」という名称にも呆れました。新しいものがダウングレードとは情けなかったです。「特急の恩恵を多くの地域の人にという意味で新特急といました(ドヤ)」とでも思っていたのでしょうかね。
実質格上げ統合となったくりこまを名乗る選択肢は無かったのでしょうか?
やはり特別急行の停車駅ですね。宇都宮に停車しないとか?583系、581系は山陽特急で乗りましたが?485系よりも座席は良かったと思います。ボックスシートと言うのはありましたが?当時としては力作だったと思います
いつもご視聴とコメントありがとうございます。ボックスシートではありましたが、直角シートではなく、ゆったりと座ることができましたね。座席も寝台も使えるようにするためによく考えていたなと思います。
はつかり2号は宇都宮・福島・仙台・盛岡の「県庁所在地限定停車」でしたから大宮停車宇都宮通過でバランス?
@@akiratan 様大宮と宇都宮とで分け合っていたようだね。県庁所在地浦和は完全に蚊帳の外だ。
@@Kineosporia 当時の浦和駅は中電(現在の上野東京ライン)も全列車通過駅でしたから。
@@akiratan結果的に合併は当然の流れでしたね。
上野から福島の間ですが、何回か“青いはつかり”に乗りました。母に頼むと決まって“ひばり”しか取ってもらえず、祖父とみどりの窓口に行った時にねだっていたみたいです。青くてデカい車体と速さ、見慣れない広幅ボックスシート、子供心に特別感を感じていたのを覚えています。
583系、カッコよかったなあ。最後に走る姿を見たのは、武蔵野線を6連で走る姿でした。
上野~青森を全線走破する583系はつかりは別格の貫禄ですね
昭和55年のお盆、宮城県の祖母宅で東京のイトコに「やまびこの食堂車でカツカレーを食べて来た」
と自慢されて羨んでいたのですが、お盆明けで東京に帰るイトコを小牛田駅で見送る時はなんと583はつかり!!
羨ましさのあまり名残を惜しむどころか憎まれ口を叩くことに。
夏が終わってイトコから「はつかりの食堂車で食べたフライ定食は美味しかったよ。来年は一緒に特急の食堂車で
ご飯を食べながらばあちゃんちに行こうね」と手紙が。しかしその夢はついに叶わず、40年以上も経ってしまったとは。
583はつかりは子ども時代の永遠の憧れです。
いつもありがとうございます。この頃は「全車指定席でなければ特急にあらず」「300キロ以上走らなければ特急にあらず」「食堂車・グリーン車がなければ特急にあらず」と言う匂いがしてました。その後特急増発で自由席を付けたことで、「コーヒー1杯で食堂車に粘る客」が増え、食堂車ももうからなくなり廃止。583のはつかりは一度だけ乗りましたが、案外ボックスでも乗り心地は良かったです。その後、思わぬ所で再会。1985年に開催されたつくば博覧会、定期列車では足りず、臨時列車がキハ58、寝台の20系、583系などあちこちからかき集められて運転されてました。
【追記】仙台の乗り換え、急行きたかみですが、列車番号といい所要時間といい、花輪線・奥羽本線経由でしょうか。
583系昼運用は、有明に乗ったことがある。リクライニングはないけど広々としてよかった。583系は渾身の作だね。(581系だったかも知れないが)
食堂廃止は人件費や衛生面も関係してたでしょうね、現在は九州の気動車特急の一部にビュッフェがありますが「イートインカー」と呼んだ方がいいでしょうね。
ヨンサントオの1ヶ月前の1968年の9月から、常磐線経由で583系はつかりが
気動車のスジで運転されているんですよね。試運転のつもりだったのでしょうね。
急行まつしま、懐かしいですね。451系の頃、「松島」のヘッドマーク掲げていました。
父の撮影した写真が残っています。まつしまにはビュッフェが連結されていて、
にぎり寿司コーナーがあったそうです。食べてみたかったなあ。
新幹線が盛岡まで開通した後、485系のはつかりに乗って青森まで行ったことがあります。車内は満員で盛岡ー青森間だけでも思ったより時間がかかり、大人になった私でもかなりストレスを感じましたわ。昔の人は、嘸かし苦労して帰省したたのだろうと、つくづく感じましたわ。また新幹線の存在の有り難みと大きさも実感しましたことを思い出しました。
いつもありがとうございます。はつかりは1回だけ上野まで乗りました。後は盛岡止まりになってからですね!地元が地元だけに583系は愛着がある車輌の1つです。Twitterフォローさせていただきました。
はつかりには、何度かお世話になりました
関東在住の親戚宅に遊びに行ったり、中学の修学旅行などいろいろな思い出があります
夜行はくつる、ゆうづるも乗りましたが、昼行特急と同じくぶっ飛ばして走っていました
唯一の心残りは、食堂車で食事が出来なかった事です。
夜ははくつるやゆうづるとして上野にトンボ帰りしてたんですかね。ホント過酷な運用でしたね。すごい。
今なら東京から青森は新幹線で3時間で行ける時代。在来線特急で8~9時間かかった時代からしたら夢のようでしょうね!
しかも函館も乗り換えはあるものの4時間ちょっとで行けるようになり、おそらく函館観光程度なら東京から日帰りもでき、本当に便利になりましたね。
寝台特急電車581系は昼夜問わずフル回転した働き者
50ヘルツの東日本は483系と583系
60ヘルツの西日本は481系と581系が走行した
後に二つとも対応できる485系と583系になり交直流両用の特急電車は昼行特急の花形として長きに渡って活躍した20世紀の名車になった
午後に上野を出発する当時の”はつかり”は、上野->宇都宮->福島->仙台->盛岡->青森(大宮、郡山は通過)にしか停車しなかった最速特急でしたね。2時間以上ノンストップが当たり前でした。
盛岡駅の駅弁には当時、ジンギスカン弁当っていうのもあって、自分はそれを買って食べた記憶があります。
まだ松尾さんが全国展開する前でしょうから貴重な体験ですね。
ヨンサントオは東北本線黄金期の幕開けでしたね。
はつかり・やまびこ・ひばりの本線特急、つばさ・やまばとの奥羽特急にあいづ号と一気に役者が集まった感じがします。
常磐線はその煽りを受けて一時期夜行特急ゆうづる中心になり、ひたち・みちのくの登場まで昼行特急再生を待たねばならなくなりませんでしたが。
特急はつかり、一度だけ大阪から恐山に行くために青森・野辺地間だけ乗車しました。残念ながら583系ではありませんでしたが、終点盛岡まで乗車してみたかったと今でも思う事があります。東北本線全盛期の時、特急はつかりはL特急ひばりに次いで運行本数が多く、特急やまびこや特急つばさよりも多かった記憶があります。また583系と言えば、私はまず真っ先に新大阪・博多間を走っていた寝台特急月光を思い浮かべてしまいます。この列車こそ私を鉄道の世界への興味の扉を開かせたものです。まだ幼い子供の時分でしたので乗車はかないませんでしたが、いつかは乗車してみたいと思ておりました。また懐かしい列車の思い出を掘り起こして頂きありがとうございました。 PS・・・またリクエストですが、幼い子供の時の憧れであった新大阪発博多行きの寝台特急「月光」か、戊辰戦争の古戦場巡りに便利な新潟発上野行きの急行「いいで」を取り上げて頂けたら、とても嬉しいです。気が向いた時には、是非ともよろしくお願いしますね。
小学生の頃に「はくつる」のB寝台に乗ったが、急行「津軽」のオハネフ12よりは快適だった記憶があります😅
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
10系客車の乗り心地はあまり良い評判をききませんもんね。高さを考慮しなければ、583系の方が幅も広くて快適であったでしょうね。
停車駅がめっちゃ少ないですね。俊足特急ですね。一度だけ583系寝台に乗った事あるけど、もう一度乗ってみたい。
ところがどっこい、この列車は本当の本気の停車駅ではないという……
渡道で最速ははつかり2号ですね!。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
はつかり2号→おおぞら の乗り継ぎを使用して、上野(15:40)→札幌(8:55)ですから、はつかり1号を使用するより2時間30分短いですね。
@@vfcfha ですです!!後のはつかり5・1号です!!!
@@khf-hd7sq
53-10 で11号と2号に、車両もこの頃には485に変更
1976年8月、中学2年生の夏休みに新大阪→大分の583系彗星3号のB寝台下段に乗車した思い出があります。
高さはともかく、ゆったりした寝台幅には感動した記憶があります。
名古屋ですと、583系は寝台電車特急「金星」号で名古屋〜博多を往復。間合い運用で、昼行電車特急「しらさぎ」号で名古屋〜富山を往復する運用に就いていた。
583系の昼間の普通車の座席は向い合せで、好きじゃなかった。
寝台電車の発想は素晴らしかったが、昼夜こき使われて、短命だったと思います。
最後は改造されて、ローカル運用の普通電車になってしまい、見ていて泣けてきました。
2021Mはつかり1号の方ですね。ヨンサントウの時刻表を持っていないので、鉄道ピクトリアル2018年7月号「43-10」ダイヤ改正50年特集号で調べました。
札幌から先の列車の接続が知りたいです。
しらさぎで休止してた食堂車が雷鳥では営業でしたね。
大宮の次が郡山、宇都宮や一ノ関、北上…通過という北海道連絡という風格を感じさせる、エル特急出現前の「ほんものの特急」という感じですね
はつかりには10年後の78年に乗車しましたが、残念ながら背もたれが固定式のボックスシートと居住性の悪い評判の悪い特急に成り下がっていました
渡道で最速は、はつかり2号の方ですね!で八戸はまだ尻内って駅名の時代ですね!。翌年に幸ちゃんフィーバーを起こす三沢高校も甲子園からの帰りにはつかりを使ったのかもしれませんね。
盛岡乗りかえのところ、山田線の行き先「宮古」が「都」になっている。
中野の「宮古こんぶ」なんちゃって^^
当時と現在の物価の違いがあるから当然なのですが、駅弁の安さよ…
盛岡での秋田連絡が注目されたのが特急化されてからだったのは遅きに失しましたね、全線開通自体が遅かったのもありますが単純計算では東京⇋秋田の最速ルートになってもおかしくなかった距離ですね。
Greetings from Hong Kong...
東京/上野行きの時刻表について動画を作りませんか?
青函連絡船接続の昼行特急のはつかり、みちのく、夜行寝台特急はくつるには乗りましたね、格下げ改造の715系、419系、717系1000番台乗りましたが、九州では715系に改造後に
も全席指定席の臨時急行に運用されてました、もちろんロングシート部分も指定席で発売されてました。
当時の特急では当たり前でしたが、大宮〜郡山間(黒磯で運転停止?)、仙台〜盛岡間の不停止が今となっては印象的です
いつもありがとうございます。
583系が昼夜をフル回転して走り続けた時代の始まりですね。
夜行列車で青森→東京、さらに寝台を解体して座席車として青森に戻ると言うハードな運用だったことと思います。さらには往復ともに120キロのトップスピードで走行となると機器のメンテも大変だったことでしょうね。
向い合わせの座席はひばり号の485と比較して遜色のない座り心地でした。
三段寝台は客車と比較してベッドの幅が広く、評判は良かったそうです。
限られた車両、線路容量やスタッフのなか、日々多くのお客様を運ぼうと言う苦心作でした。
今度は大阪から出雲方面を結んだ急行だいせんを希望します。朝大阪駅を出て出雲大社の近くに到着するのは夜と言うのも凄いものでしたね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
座席と寝台を両立するために、細かいところまで設計者のアイデアが溢れる車両だったそうですね。
限られた資源を有効活用するために、当時の人達の知恵を集めた力作だなと思います。
リクエストありがとうございます。
大変魅力的な列車ですね。こまめに停車しながら出雲へと向かっていましたね。
在来線特急「あさま」廃止直前の、1997年の横川駅(or軽井沢駅)の時刻も見てみたいです
福島でつばさ2号に乗り換えるより仙台で急行仙山に乗った方が山形着は速い?
最速のはつかり号でも青森には夕方過ぎ。函館には夜中。早朝には札幌。北海道を陸路で行くには大がかりな旅ですね(゚Д゚)。
今では、新千歳空港まで空路で2時間以内で着く。北海道も近くなりましたね(*゚∀゚)。
この頃には東京対札幌のシェアは航空が過半数を占める時代になっていましたが、国鉄は運賃の安さと自らの特急増発でまだまだ盛り返そうと考えていたのでしょうね。
新幹線が札幌まで開通したら飛行機が有利である状況は変わらないものの少しは盛り返すのかもしれませんね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
複線電化で速度が上がったとはいえ、遠い距離であることがよくわかりますね。新幹線の札幌開業で、北海道各地に周遊しやすくなると良いなと思います。
リクエスト
寝台特急トワイライトエクスプレスでお願いします。
581・583系は西に東と昼夜走り続けた時代の寵児であり、唯一無二の存在となった日本の鉄道史に残り、今後、出てこない車両であるので、個人的に好きな車両でもあります。
同感です。昼寝中のサンライズを見ると「働きなさいよ」と思ってしまう、583系はつかり時代を経験した一人です。
@@こちたんぱぱ でも、この寝台には乗りたくないな。狭そうだし。サンライズは広くて個室で快適に寝れるし、起きてから仕事もできる。
@@こちたんぱぱ 様
サンライズの昼行運用は出雲はともかく瀬戸は可能なのではないかな。
午前10時頃高松を出発、午後7時半東京に到着、というダイヤは組めそう。
昼間の移動も個室でゆったりというのも悪くない。
福島駅でのお乗り換えで、一部「郡山」になってます。
主要駅の通過が多いのに浅虫(現浅虫温泉)が停車駅なのは意外でした...
ご視聴とコメントありがとうございます。
時刻表を読みながら私も同じことを思いました。どのようなニーズに応えるために設定しているのかを考えるのも面白いですよね。
@@tomoyankun おそらく、昔から浅虫温泉への需要が高く、ちょうど宿のチェックインとチェックアウトに当たる時間帯に特急を停車させているのではないかと推測します。
@@kataakeo7730 様
極端に朝早い、夜遅い時間帯に浅虫を通る列車は、急行はともかく特急は停車していないからね。
地元民よりも温泉客を意識した扱いだったのだろう。
今度は昭和55年のダイヤで、特急「はつかり」と青函連絡船と夜行急行「すずらん」と急行「かむい」と富良野線の旅をリクエストします
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
北海道の名所を回れそうな楽しいルートですね。リクエストありがとうございます。
宇都宮すら通過するのが「The・特別急行」という感じがしますね。
大宮~郡山間や郡山~福島~仙台間で車窓を眺めながら美味しそうに食堂車で昼食を食べている光景が浮かんできました。
これの面白いところは停車型は宇都宮通過の一方で速達型(この当時ならはつかり2号)は宇都宮に停車するところなんですよねぇ
夕方の最速列車だったらどの辺りで夕餉、あるいは晩酌を嗜むことになるのだろうか……
でも、なぜか浅虫に停車する。小さな温泉郷はあるけど。
@@kataakeo7730 様
昭和56年の時点では、北海道からのカーフェリーで、港から通じた道と国道との交差点の案内標識が「④浅虫← →弘前⑦」という表示だったから、結構名の知れた地名なのだろう。結構需要もあったのではないか。
当時、猛スピードで大宮駅を通過するのを見たことがあります。
子供の私にとって、青い『はつかり』は、まさに特別な急行でしたわ。
その時に撮った写真は今でも大事に取ってあります。
リクエストは、昭和58年で寝台特急「ゆうづる」と青函連絡船と特急「おおぞら」で釧路の旅をリクエストします
きたね。
はつかり。
上野発のレジェンドトレイン。
盆前に持ってくるとは…。
やっぱやるね。
4310(ヨン・サン・トウ)のダイヤ改正から東北本線全線電化ではつかりは東北本線全線走行になり、東日本特急の雄として君臨する
ここから東北特急急行の全盛となり、東北新幹線開通までかなりの賑わいを極めた
乗務員交代は何ヶ所で行っていたのでしょう。
大宮から郡山までノンストップと言うことは上野から郡山まで交代なしで行った?
北東北は初雁、中央線は初狩高原、どっちもフルーツで有名な地域
今はつかり号があったら「中央線初狩駅来たー!あれ?特急はつかりってここ来ないの?」とかいうギャグをみんな投稿しそう
国鉄史上最大のダイヤ改正と言われるヨンサントオは凄かったみたいですね。
東北本線は全線電化複線化しましたが、厳密には青森信号場~青森が単線なんですよね。
急行しもきた碇ヶ関行き、急行なつどまり1号鮫行きといった優等種別として何か微妙な行先の設定があったのは気になるところです。
あとコミケ1日目お疲れ様です。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
青森信号場〜青森駅間の件を見て、青森信号場について調べてみました。思っていたより複雑で勉強になりました。
なつどまりは調べてもなかなか資料がなく、経緯について色々と考察しがいがありますね。
旅客線は坂を上る前に単線になり、その後たくさんのポイントを通り駅進入となるんですよね。上りもこの逆です。ゆっくり橋梁上を走るのが終着駅て感じで良いですね。
まさかのあえての"停車型"と来ましたか!!!結構渋い選定ですな(とは言いつつ1Mの方も見てみたい感はある一方で(1975年辺りの)4001M→1便→1D→どこかで乗り継いで稚内へ……というパターンも見てみたいですな……)
そろそろ北斗星やトワイライトも
知らない人出てきそう。
尻内って今の八戸
仙石線が12から20分間隔運転で雑に紹介されてる。
50年以上前からそれなりに走ってて、ぶっちゃけいまでもあんまりかわらない😅 4:44
大宮から郡山までノンストップは今の新幹線並みがそれ以上に感じられるぶっ飛ばし具合ですね。それだけ、関東方面と東北方面の連絡を重視していたということなんでしょうか。長距離運転列車に必ずと言って良いほど着いていた食堂車のメニューにも興味をそそられますね。食堂車のメニュー、途中で食材が切れそうになったらどうしていたんでしょう。まさか途中の駅で積み込みは出来ないでしょうし、売り切れにしたんですかね。
ところがこれでさえ"停車型"の停車駅なのだから本当に恐ろしい……(本当の意味でぶっ飛ばす列車はむしろ夕方発のアレ)
はつかりは、大宮すら通過するのもありましたからね。
はつかりいいよな
自分こないだ1985年の時刻表の本を買いました
いつでもいいので自分の好きな雷鳥号と
はくたか号の話してください
来年には北陸本線が廃止になるみたいだから
急行アルプス1997年10月ダイヤお願いします。
583系繋がりで急行きたぐに号お願いします🤲
特急「はつかり」 上野 → 大宮 → 郡山 → 福島 → 仙台 → 盛岡 → 尻内 → 浅虫 → 青森 😮
一ノ関通過なのに駅弁表記する意味
駅弁安い! 今のおにぎり1個分の値段(笑)!
せっかくだから1Mでやってほしかった
上野と青森を結んだ代表列車ですね。停車駅の少なさ(大宮から郡山までノンストップ!)この時代の特急の風格を感じます。
自分が乗った時は東北新幹線が開通して盛岡と青森を結ぶリレー列車になってしまったのが残念でした。
「なすの」のように、古河や氏家にすら停まる列車を特急にした明確な理由が不明。結局は特急料金欲しさだな。
@@Kineosporia この時代には国鉄の経営がかなり悪化していましたからね。
@@山形祐介-e5l 様
「新特急」という名称にも呆れました。
新しいものがダウングレードとは情けなかったです。
「特急の恩恵を多くの地域の人にという意味で新特急といました(ドヤ)」とでも思っていたのでしょうかね。
実質格上げ統合となったくりこまを名乗る選択肢は無かったのでしょうか?
実質格上げ統合となったくりこまを名乗る選択肢は無かったのでしょうか?
やはり特別急行の停車駅ですね。宇都宮に停車しないとか?583系、581系は山陽特急で乗りましたが?485系よりも座席は良かったと思います。ボックスシートと言うのはありましたが?当時としては力作だったと思います
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
ボックスシートではありましたが、直角シートではなく、ゆったりと座ることができましたね。座席も寝台も使えるようにするためによく考えていたなと思います。
はつかり2号は宇都宮・福島・仙台・盛岡の「県庁所在地限定停車」でしたから大宮停車宇都宮通過でバランス?
@@akiratan 様
大宮と宇都宮とで分け合っていたようだね。
県庁所在地浦和は完全に蚊帳の外だ。
@@Kineosporia 当時の浦和駅は中電(現在の上野東京ライン)も全列車通過駅でしたから。
@@akiratan
結果的に合併は当然の流れでしたね。